金曜日の夜をめざして

一人暮らしのリハビリ中アラサー。うつ病とか発達障害とかいろいろ

普通じゃないことと発達障害と過剰適応について

変わってる子だね、個性的だね、ユニークだね、独特の視点があるね。

ちょっと普通じゃないよね。人の気持ちがわからないのかな。想像力ってものを使えないのかな。普通人間ってこうするよね、なんであなたはそうなの?

ちょっとおかしいんじゃないの?

昔から言われてきました。普通じゃないと。今の私を「普通」と言う人は結構います。私のことを良く知りもしない人から「普通じゃん、気にする必要ないよ」とか無責任なことを言われることもあります。しかしそういうことじゃない。普通に見えたとしても、私が感じている苦しさはそういうことでは解消されないのです。

 

普通じゃない自分のままでは生きていられなかった

昔からずっと普通になりたかった。普通であることが普通の人間になりたかった。ずっと執着しています。今だってそうです。普通であることが当たり前の世界に生まれたらどんだけよかったか、毎日のように苦しい思いをしています。普通じゃないと言われることが異常に怖くて、びくびく過ごしています。しかし普通じゃないかと言われたら言われたで「こっちのことも良く知らないくせに」といらだってしまいます。自分勝手なものです。

私はアスペルガーADHD両方の性質を持っていて、いわゆる発達障害です。今トレンドの言葉ですよね。子供が発達障害だったらどうしよう、そう悩む親御さんも多いんじゃないでしょうか。本屋を見るといい加減な本がたくさんあります。「これを食べさせたら発達障害が治る」とかね。バカじゃないのって思います。そんなんで治るなら苦労してないわ。

私が生まれたころはまだ発達障害の認知度が低かったので、いわゆる「変な子」扱いで済まされていました。ごっこ遊びができなかったり集団になじめなかったり異様に手先が不器用で居残らされたり、幼少期を振り返るとそんなのばっかりです。

でも、本当に嫌だったのはコミュニケーションができないとか運動が苦手とかそういうことじゃないんです。それによって「どうしてこの子はこんなに出来ない子なんですか?」という目を向けられることです。

自分は自分のやりたいように、思ったように、信じたように行動しているはずなのに、その全部が「おかしいでしょ」と否定されること、これがものすごく苦痛でした。

なぜ外で遊ぶ子が良い子なのか、なぜよく笑う子が良い子なのか、なぜかけっこが早い子が良い子なのか、そうじゃない子は「変わってる」とその都度言われなければならないのか。理不尽と感じることばかりでした。

発達障害の特徴は幼少期に一番現れるそうなので、おそらく幼稚園~小学校のころのエピソードがサンプルになるでしょう。今ふりかえっても、言葉に尽くせないくらいおかしな子でした。自分が親だったら発狂して投げ出したくなるくらいおかしい子です。よく育児ブログとかで出てくる「かわいらしい子供のしぐさ」「お母さんへの愛情を示す言葉」なんてのが、本当にわからない。スキンシップ大嫌いなのが発達障害の特徴のひとつらしいですが、それも該当します。普通の子供のパターンに当てはめられないことが非常に多かった(幸い? それを責めるような家族ではなかった)。

そして「おかしい」と言われても何がおかしいのかわからない。どう直したらいいのかわからない。他人が何を喜び何に悲しむのかわからない。だからなんとコミュニケーションを取ればいいのかわからない。何をしても火に油を注いでしまう。じゃあ黙っているしかないじゃないか。

根深い自己否定はこのころからありました。さいころで6が出ることを祈っても毎回毎回1が出る。確率的にはそんなのありえないのに、自分に限ってはそういうことばかり起きる。他人はどんどん先に進んでいく。そういう虚しさを感じていました。

「普通じゃない」ことそのものが辛いのではなく、それを他人に受容されることはないこと、社会で生きるためには「普通じゃない」存在は求めらないことを知ったのが非常に大きなショックでした。

 

社会に溶け込むために過剰適応を始めた

そんなこんなで10代が終わるころまでは「普通じゃない」レッテルを貼られ続けて生きていきました。自分でもその自覚はあったし、もう何をやっても言われても白い目で見られるし、わけもわからず嫌われるし、うんざりしていました。そのころネットで検索していたら「アスペルガー」という言葉を見つけて、もしかしたら自分ってこれなんじゃ…?と疑い始めました(病院には行かなかったけど、結局この予感は的中していました)

そしてアスペルガーがいかに周囲に迷惑をかける存在であるかを目の当たりにし、今までの自分のやらかしを思い出し、たくさんの人を不快にさせてきた事実に後悔しました。おそらく思い当たることの10倍以上は迷惑をかけています。まだ大学も出ていない歳でそれだけ迷惑をかけているのなら、この先もっと生きにくくなる。「普通の人」が大多数の社会で生きていくのであれば、少しでも擬態しなければならない。そう思い、普通の人の真似を始めました。

具体的には「自分の思ったことは一切言わない」ことを徹底しました。なぜなら、自分の言ったことは十中八九言わなくてもいいことだからです。たとえば「前髪切りすぎてるじゃん」とか「ネックレス似合ってないよ」とか「パンプスのかかとボロボロだよ」とか。そういうことを個人的に言うならともかく、集団で言ったりしてめちゃくちゃ怒られたり無視されたりしました。当然ですよね。とにかく口を噤む。自分の思ってること、言いたいことは、相手が望むものではない。これを何度も言い聞かせました。

そしてコミュニケーションがうまい人の真似をする。どうも聞き上手の人が多いようなので、あいづちや表情などを作って、相手が話しやすいようにしました。どうも自分は声が平たんで無表情になりがちで感情が読めないと言われます。テレビに出ていたアスペルガーの方の顔と話し方があまりにも自分と同じでびっくりした記憶もあります。とにかく人間の真似をする。今まで何ひとつ身に着けてこなかった人間としてのしぐさを必死に習得する。それは何年も続きました。

これもひとつの「過剰適応」だったんだと思います。人間の社会の中では人間としてのふるまいを求められる。それができない人は集団の和に入ることは許されない。そういうことをようやく自分でも認識して、普通の人であるかのようなお面を制作することにしました。最初は苦しかったです。自分じゃない何かを演じている気味悪さがつきまといますし、でもそうじゃないと生きていけないし、「自分らしさなんていらないから、人間らしくいなきゃ」と毎日必死でした。それは今まで迷惑をかけた人への贖罪でもあり、今後少しでも生きやすくしたい自分の傲慢でもあります。

 

肉を食べるシマウマ

今でも思い出すトラウマ的記憶として学生時代のバイト先があります。接客業で手を細かく動かすものだったんですが、まあ向いてなかった。そこの店長には毎日のようにいびられて、メンタル豆腐ですぐに落ち込んでしまって、ある日には「死にたいなあ」と踏切でずっと立っていました。

バイトじたいがしんどいのではなく「こんなこともできないのか」「なぜほかの人にできることがこんなにも難しいのか」という自分への絶望からでした。

もしかしたら双極性障害のうつエピソードもここに入るのかもしれません(その後は軽躁バリバリが始まったので)

人格否定まがいのことを毎日言われたのですが、やはりきついのは「どうしてほかの人みたいにできないの?」「普通こうするよね?なんで想像して動けないの?」「察するってわかる?こういうときお客様はこういうこと思ってるんだな、こうしてほしいんだなって、普通察するよね?」「今までどうやって生きてきたの?どうしてそんなに他人の気持ちがわからないの?」「もっとこう、人間らしくなろうよ。機械じゃないんだから」

過剰適応の最中ではあったのですが、上記のことを言われると「ああ、まだダメなんだ」「人間になれてないんだ」と落ち込み、必死にコミュニケーションの本を読み、鏡の前で表情をつくりました。テレビ番組の芸能人を見て話し方をまねしたり、リアクションを参考にしたり、ちっとも興味が無いけど人気の漫画を読んだり。人間とはかくあるべき、という定義を探して、ずっと練習を続けています。今もそうです。「浮世離れしている」と言われることが多くて、遠回しに嫌味なんだろうかと疑心暗鬼になって、誰かを不快にさせてるんだろうなと自己嫌悪します。もう障害なんでどうしようもないんですけどね…

バイト先でぼろくそ言われながら過剰適応の練習を続けた結果、当時よりかは人っぽい動きができるようになったかと思います。本質は全く変わっていないんですけどね。たぶん就活とか絡んだのも大きかったと思います。就活で「人間らしさの擬態」を特訓しました。就活は自分らしさなんて出しても意味ないですからね。セオリーさえ覚えればロボットみたいに受け答えすればいいんだから、ある意味楽です。短時間勝負なら見抜かれにくいですし(雇用されてから化けの皮が剥がれて評価が下がるパターンです)

今の自分は例えるなら肉を食べるシマウマです。肉がおいしいとは思わない、食べたいとも思わない、でも肉が上級の食料とされている世界だから、そうしなければならない、そうすることが正解だと強く思わされている。そんな感じです。

こういうことを書くとまた「普通じゃなくてもいいじゃん」だの「自分らしさが大事」だの言われるのですが、そういうことじゃないんです。

普通じゃないことがつらいのではなく、そうすることで予期せず人に迷惑をかけたり、怒らせることで自分の価値をこれ以上下げることがつらいのです。

発達障害は個性だとか馬鹿抜かす人たちはたくさんいます。やれアインシュタインだのエジソンだの坂本龍馬だの世に出たたくさんの天才たちの多くは発達障害だったって例示されます。最近の例だと米津玄師もそうでしょう。

間違いなく今の日本音楽のトップを走る人間が高機能自閉症だと言われて、それをネガティブにとらえる人は、多くはないと思うのです。むしろ「そういう障害があるからこそとんでもない才能があるんだ」「神様からのギフトだ」と礼賛するでしょう、とくに障害に関して無知なファンは。

まるで発達障害が天才のアクセサリーのようにもてはやされる。私はそれがどうにもしんどい。

彼らが天才なのは言うまでもないし、それが発達障害に由来するものなのかもしれない。山下清サヴァン症候群ゆえの記憶力で多くの絵画を残しました。

しかし「才能があるから発達障害でもいいじゃん」だの「自分らしさを大切にしていたら世間に認められる」だの、外野から適当なことを言われるのは本当に不愉快です。天才はごく少数だから天才なのであって、他の99%は凡庸以下の人間です。

発達障害は能力の凸凹が大きいですが、じゃあその凸が「天才」になるために備わった才能なのか?って言われたら……世の中もっと「天才」って多いと思いませんか?

役にも立たない凸凹を抱えて生きる人間なんて大勢います。発達障害だってそうでしょう。昔は職人的スタンスや農業とか単純作業の仕事とか、仕事の選択肢はあったかもしれません。しかし今は本当に厳しい。人間らしく振舞えない人間にとても厳しい。コミュニケーションもマルチタスクも大嫌い。感覚過敏で電話の音が聞き取れない。「そのへん適当にやっといて」の意味がまったくわからない。集団のヒエラルキーがわからない。嫌味さえわからず、後からハラスメントを受けていたことを第三者から言われる。

生きていくのは本当にきつい。シマウマが草を食べるのは当たり前のはずなのに、それがおかしい、それは普通じゃないと言われる。だから肉を食べる(東京グールでも、普通の食べ物が吐き気するくらいまずいのに無理やり食べてますよね。あんな感じに近いと思っています)言葉に表現しにくい違和感があるのですが、それでも生きていくためには擬態するしかないと私は思っています。「自分らしさ」なんて必要ない。一部の天才たちにはそれが金となり名声となり他人を動かす力になるのかもしれませんが、凡庸以下の自分にはそんなの必要ありません。

繰り返しますが発達障害なんて個性じゃありません。マスメディアは映える発達障碍者ばかりを取り扱っていますが、あんなキラキラしたのはごく一部でほとんどが「障害」です。

発達障害を個性だというのであれば、なぜ今「発達障害は治る」というバカげたビジネスが流行っているのでしょう。それって矛盾してません?個性なら伸ばせばいいじゃないですか。無理やり矯正しなくてもいいじゃないですか。

治したい親が多いってことは、それってつまり、発達障害なんて「個性」とかいう優しい言葉じゃ表せないものってことでしょ?

凸凹をさらけ出したまま生きるのはとてもしんどい。かといって過剰適応で自分を隠しながら生きるのもしんどい。どうすればいいんでしょうね?人間擬態薬でも開発されればいいのに。一般的な人間の頭の中を理解できる薬があればいいのに。人間らしく動けるようになればどんなにか楽か。凸凹なんていらないので、もっと平らな人間になれませんかね。

普通じゃないことはとても苦しいです。でもそれ以上に、誰かを傷つけたり自分を無価値だと痛感させられたりすることが辛い。なので、これからもなるべく普通と思われるように誰かに擬態して生きていきます。そうするしか今のところ自分には道がないので。